自分の商売で、自分のお金を張って、自分で確かめる。
自分の店だから、
失敗したくない。
普通はそう考えるのかもしれません。
僕は少し逆です。
自分の店だからこそ、試せる。
失敗しても、
最後に責任を取るのは自分だからです。
飲食店を長くやっていても、
分からないことはいくらでもある。
値段を変えたらどうなる。
料理名を変えたら。
予約条件を変えたら。
営業時間を変えたら。
考える。予想する。
でも最後は、
やってみないと分からない。
例えば、売れない料理がある。
料理そのものなのか。
値段なのか。
名前なのか。
見せ方なのか。
そもそも存在を知られていないのか。
だったら、
一つ変えてみる。
売れた。
売れない。
予想以上に反応した。
まったく反応しなかった。
それも全部、
自分たちの生きたデータです。
誰かの成功事例ではない。
コンサルタントから聞いた話でもない。
自分のお金で、自分の店で、本当にやった結果。
当然、失敗もします。
でも、小さく試せるものなら、
失敗したら戻せばいい。
そして一つ賢くなる。
僕が怖いのは、
失敗することより、
何年も同じことをしているのに、それが本当に正しいのか検証していないことです。
仮説を立てる。
試す。
結果を見る。
また変える。
だから僕は、
自分の店を結構な頻度で実験台にします。
実験されているスタッフからすれば、
たまったものではないかもしれません。
(笑)
でも、
自分の商売で、自分のお金を張って、自分で確かめる。
そこで得たものは、
次の商売でもちゃんと使えます。
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僕は、自分の店を実験台にする。
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なぜ僕は、「日本から経営孤児をなくす」なんて言い出したのか。
僕自身が、長いこと経営孤児だったからだ。
日本から、経営孤児をなくす。
自分で言っておいてなんだけれど、
ずいぶん大袈裟なことを言い出したものだと思う。
(笑)
でも、結構本気です。
たぶんこれは、
僕自身が長いこと、経営孤児だったからだ。
経営者になったからといって、
周りから人がいなくなるわけではありません。
むしろ、たくさんの人と会う。
相談する相手だっている。
それなのに、
経営については時々、妙に一人だった。
困っていることを話す。
話は聞いてもらえる。
意見ももらえる。
でも帰り道には、
結局また自分の頭の中に戻っている。
あれは孤独というより、
僕には、
侘しさに近かった。
誰かに答えを出してほしいわけじゃない。
最後は自分で決める。
それは分かっています。
でも、
決めることと、一人で考えることは違う。
だから誰かから経営の相談をされると、
僕はどうも他人事で終われません。
相手の会社なのに、
自分だったらどうするかを考える。
相手のお金なのに、
自分のお金だったらどうするかを考える。
たまに、
「そこまで訊いてないけど。」
と思われているかもしれない。
(笑)
でも、
僕はあの感じを知っています。
話を聞いてくれる人はいる。
相談できる人もいる。
それなのに、
なぜか一人。
だったら、
少なくとも僕と関わった経営者には、
同じ思いをさせたくない。
目の前に一人いたら、一緒に考える。
また一人いたら、また考える。
それを繰り返していたら、
いつの間にか、
「日本から経営孤児をなくす。」
なんて言葉になりました。
経営者の孤独そのものは、
なくならないと思います。
最後は自分で決める仕事だから。
でも、
孤独であることと、孤児であることは違う。
最後は一人で決める。
でも、
そこへ辿り着くまで、
一人で考えなくてもいい。
僕自身が、
そういう人を欲しかった。
だから今度は、
僕がそういう人になればいい。
結局、それだけです。
日本から、経営孤児をなくす。
大袈裟だけど、
今のところ結構本気です。 -
その発言、どの高さから見ていますか。
視座が変われば、発言も変わる。
僕だって、人には好かれたい。
一緒に働いている人たちから、
嫌われたいわけじゃない。できれば、
「シンさん、それいいですね」
と言ってもらえる方が気分はいい。でも、仕事をしていると、
それだけでは困る。僕が間違っているなら、
「シンさん、それ違いますよ」
と言ってほしい。
ただ、最近思うんです。
問題は、
意見を言うかどうかじゃない。どの高さから、その話をしているか。
ここで言う「高さ」は、
役職の高さではありません。視座の高さの話です。
たとえば、
「人がいないから、できません。」
現場から見れば、
これは事実かもしれない。目の前のシフトを見れば、
本当に人が足りない。だから、
その発言自体は間違っていない。でも、店全体を見る人なら、
「今の人数では難しいです。
ただ、ここを変えればできます。」になるかもしれない。
さらに会社全体から見れば、
「この店だけでは無理ですが、
他店との配置を組み替えればできます。」になるかもしれない。
もっと先まで見れば、
「この状態が続くなら、
そもそも採用や配置の仕組みを変える必要があります。」という話になる。
同じ「人がいない」という事実を見ていても、
立っている高さによって、発言が変わる。
これが視座なんだと思います。
現場には、現場の正しさがある。
店長には、店長の正しさがある。
経営には、経営の正しさがある。
どれかが間違っているわけではない。
ただ、
見えている範囲が違う。今日だけを見るのか。
今月を見るのか。
会社全体を見るのか。
三年先まで見るのか。
その違いで、
同じ問題への答えはまるで変わってくる。だから僕は、
誰かの発言を聞くとき、「賛成か、反対か」
だけを聞いているわけではない。
この人は今、どこからこれを見ているんだろう。
そこを見ている。
もちろん、
現場からしか見えないものもたくさんある。僕には見えていないことを、
現場の人が見つけることだってある。だからこそ、
上とか下とかいう話ではない。必要なのは、
一度、自分が立っている場所から離れてみること。
もし自分が店長だったら。
もし自分が社長だったら。
もし自分がこの会社を三年後まで背負う人間だったら。
同じことを、
同じ言葉で言うだろうか。たぶん、
発言は変わると思う。僕自身も同じです。
自分では高いところから見ているつもりでも、
もっと高いところから見れば、
間違っていることはいくらでもある。だから欲しいんです。
ただ反対してくれる人ではない。
ただ「できません」と言ってくれる人でもない。
「今の体制では難しいです。
でも、こう変えればできます。」「なぜなら、
現場はこうで、数字はこうで、
この先こうなるからです。」そこまで持ってきてくれる人。
僕と同じ高さまで来て、
できれば、
僕より高いところから議論してくれる人。そして、
「シンさん、それ違いますよ。」
と言ってくれる人。
そのときは、
ちゃんと聞きます。たぶん。(笑)
発言の内容だけを聞くのではなく、
その発言が、どの高さから出てきたものなのか。
僕は最近、
そこをとても大事にしています。 -
張るところは張る。抜くところは抜く。
VEは、安くする作業ではない。お金を使う場所を研ぎ澄ます作業だ。
新しい事業を考える時、
当然、投資額はできるだけ抑えたい。
でも僕が一番怖いのは、
お金を使いすぎることではありません。
ビビって無理くりVEして、
結果、しょぼいものをつくって負けること。だったら、
最初からやらない方がいい。
事業計画をつくれば、
1億円を8,000万円にできないか。
5,000万円ではどうか。
僕も、かなり細かく削ります。
でも、
削れば削るほど、いい事業になるわけではない。
宿なら、
素晴らしい景色があるのに窓を小さくする。
露天風呂が商品の核なのに、
そこで予算を削る。
飲食店なら、
厨房を削りすぎて、
料理やオペレーションに無理が出る。
それで1,000万円削れても、
肝心の商品が弱くなったら本末転倒です。
失敗しないために削ったことが、
失敗する理由になっている。これだけは避けたい。
だから僕は、
全部を均等に削るようなVEは好きではありません。
最初に決めるのは、
この事業は、何で勝つのか。
景色で勝つなら、
景色には張る。
温泉で勝つなら、
風呂には張る。
料理で勝つなら、
厨房や食材には張る。
その代わり、
お客様が価値を感じないところは、
思い切って抜く。
張るところは張る。
抜くところは抜く。僕にとってVEは、
安くする作業ではなく、
お金を使う場所を研ぎ澄ます作業です。
全部を70点にする必要もない。
商品の核が圧倒的に強いなら、
どうでもいいところは50点でもいい。
そして、
そこまでやっても数字が合わないなら、
もう一つの選択肢があります。
やらない。
無理に小さくして、
無理に削って、
無理に成立させる必要はない。
やる。
やらない。
その間に、
「中途半端にやる」
を置きたくありません。
もちろん、
張る前には最悪のケースも考えます。
売上が届かなかったら。
工事費が上がったら。
開業が遅れたら。
どこまでなら耐えられるのか。
リスクを考えるのは、
事業を小さくするためではない。
張るべきところで、ちゃんと張るためです。
その事業は何で勝つのか。
そこにはいくら必要なのか。
どこなら抜いても商品価値は落ちないのか。
張るところは張る。
抜くところは抜く。
それでも勝てないなら、やらない。
中途半端な投資で、
中途半端なものをつくって負ける。
それが、
一番もったいないと思っています。
-
間違えない経営なんて、たぶん無理だ。
経営をしていると、
正しい判断を求められます。
出店するのか。
撤退するのか。
値上げするのか。
人を採るのか。
借りるのか。
投資するのか。
でも、
その瞬間に正解が分かることなんて、ほとんどない。
だったら、
経営者の仕事は、
正解を当てることではないのかもしれません。
僕は、
決めて、その結果を引き受けること。
なんだと思っています。
僕も、
散々間違えてきました。
出店して、
思ったようにいかなかったこともある。
商品をつくって、
全然売れなかったこともある。
値段を変えて、
「あ、違ったな」
となることもある。
人についての判断なんて、
今でも難しい。
それでも経営している以上、
決めないわけにはいきません。
資料を集める。
数字を見る。
人に訊く。
専門家にも訊く。
自分でも徹底的に考える。
それでも最後には、
分からない部分が必ず残る。
僕は、
決断が速いこと自体を格好いいとは思いません。
調べる時は、
異常なくらい調べます。
でも、
調べることと、決めないことは違う。
もう十分材料が揃っているのに、
さらに資料を集める。
また会議をする。
また誰かに訊く。
それでも決めない。
それは慎重というより、
決断を先送りしているだけかもしれない。
そして経営では、
決めないことにも結果が出ます。
出店を迷っている間に、
いい物件を他の人に取られる。
撤退を迷っている間に、
赤字がさらに膨らむ。
決めなかったことも、一つの経営判断です。
だから、
ある程度まで調べたら、
決める。
そして、
大切なのはその後です。
決めたからといって、
絶対にその判断を守り抜く必要はない。
やってみる。
見る。
違ったら直す。
値上げして、
思った以上にお客様が離れたなら、
戻すことも考える。
新しい事業を始めて、
どう考えても成立しないなら、
やめることも考える。
僕は、
「自分が決めたことだから」という理由だけで、
間違った判断を守り続ける方が怖い。経営者だって間違える。
オーナーだって間違える。
だったら、
早く気づく。
早く認める。
そして、
早く次を決める。
もちろん、
何でもすぐ撤回すればいいわけではありません。
まだ結果が出ていないだけなのか。
そもそも判断を間違えたのか。
耐えるべきなのか。
変えるべきなのか。
そこもまた、
決めなければならない。
だから僕は、
人にも訊きます。
自分ごとの言葉を返してくれる人に、
「これ、どう思う?」
と訊く。
それでも、
最後にボタンを押すのは自分です。
うまくいったら、
みんなのおかげ。
失敗したら、
最終的には決めた自分が引き受ける。
それくらいで、
ちょうどいいと思っています。
経営者の仕事は、
百発百中で正解することではない。
考える。
調べる。
訊く。
決める。
やってみる。
違えば、
また決める。
その繰り返しです。
間違えないことより、
間違えた時に、
いつまで間違え続けないか。僕は、
そっちの方が経営では大事だと思っています。
-
古いから壊す、は一番最後でいい。
残っている価値を見つけて、もう一度事業に戻す。
古い建物を見ると、
「壊して新築した方が早いですよ」
という話になりやすい。
実際、
その方が合理的なこともあります。
僕も、
何でも古いものを残せばいいとは思っていません。
でも、
壊すのはいつでもできる。
だから、その前に一度だけ考えたい。
これ、本当に要らないのかな。
古い家。
使われなくなった旅館。
昔の店舗。
長い間、誰も手を入れていない建物。
確かに大変です。
寒い。
暗い。
間取りも今の生活に合わない。
設備も古い。
耐震も考えなければならない。
直すにも当然お金がかかる。
だったら、
全部壊して新しく建てる。
その判断が正しいこともあります。
でも僕は、
解体する前にかなり細かく見ます。
柱。
梁。
天井。
建具。
庭。
石。
窓から見える景色。
昔の人が、
なぜここに部屋をつくったのか。
なぜこちらに建物を向けたのか。
今の建物としては不便でも、
そこにしかないものが残っていることがある。
新築は自由です。
ゼロから考えられる。
だからこそ、
どこにでもあるものもつくれてしまう。
一方で古い建物には、
こちらでは決められないものがあります。
百年前の柱。
妙な段差。
不思議な間取り。
大きすぎる庭石。
今なら絶対こんなところにはつくらない、
という場所にある窓。
邪魔だと思えば全部邪魔です。
でも見方を変えれば、
それが個性になることもある。
特に宿は、
新しいこと自体が価値とは限らないと思っています。
お客様は、
新築の建物を見に来るわけではない。
そこでしかできない時間を過ごしに来る。
だったら、
その場所に積み重なってきた時間を、
少し残した方がいいこともある。
ただし、
僕は保存活動をしているわけではありません。
古いから残す。
歴史があるから残す。
それだけでは事業にならない。
使いにくいなら変える。
暗いなら開ける。
寒いなら直す。
どうにもならないなら壊す。
僕が考えるのは、
「これを残した方が、商品として強くならないか。」
ということです。
古い建具を一枚残す。
昔からある庭を、
新しくつくった浴室から見る。
古い梁を見せながら、
照明は現代のものにする。
全部昔に戻す必要はありません。
その建物が持っている時間を使いながら、
今の快適さをつくればいい。
そして当然、
数字も見ます。
残す方が新築より高くなることもある。
改修を始めたら、
次から次へと問題が出ることもある。
そんな時に、
「歴史がありますから」
だけで、
オーナーのお金を使い続けるわけにはいきません。
残す価値。
改修費。
完成後の商品力。
売上。
維持費。
全部を見て決める。
美しいだけでも駄目だし、安いだけでも駄目。
使われなくなった建物も、
価値がなくなったとは限りません。
使い方が、まだ見つかっていないだけかもしれない。
実際に見に行くと、
たまにあります。
「いや、これ、磨いたらものすごく良くなるんじゃない?」
という瞬間が。
建物全部ではないかもしれない。
庭かもしれない。
景色かもしれない。
温泉かもしれない。
一本の梁かもしれない。
それを見つけたら、
そこから考える。
何を残す。
何を捨てる。
何を足す。
そして、
どう商売にする。
僕にとってリノベーションは、
古い建物を綺麗にする仕事ではありません。
残っている価値を見つけて、
もう一度事業に戻す仕事です。だから、
古いから壊す。
その判断は一番最後でいい。
散々見て、
数字にもぶつけて、
「やっぱり壊そう」
なら、普通に壊す。
でも、
一度壊したものは戻せない。
だったら、その前に一度くらい、
本気で、
「この建物、まだ何かできないかな。」
と考えてみたい。
そこから、
思いもしなかった事業が始まることがあります。
-
料理をつくらない人も、店をつくっている。
料理人だけが、店をつくっているわけではない。
飲食店というと、
料理人が主役に見えます。
もちろん料理は大事です。
うまくなければ、
僕はいい店だとは思わない。
でも、
料理をつくる人だけが、店をつくっているわけではありません。
入口で迎える人。
電話を取る人。
料理を運ぶ人。
掃除する人。
最後に見送る人。
全員が、
その日の店をつくっています。
僕は料理人ではありません。
だからなのか、
料理以外のことも、ものすごく気になります。
入口。
照明。
椅子。
音楽。
器。
温度。
サービス。
電話。
料理を出すタイミング。
帰りの挨拶。
美しい店でも、
人が冷たければ残念な店になる。
逆に古い店でも、
人が良くて、
なぜかまた行きたくなる店がある。
店の空気は、人がつくる。
例えば電話。
お客様にとって、
店との最初の接点かもしれません。
そこで、
やたら声が大きい。
やたら早口。
本人に悪気なんてない。
でも、
残念賞。
まだ一皿も食べていないのに、
店の印象はもう始まっています。
予約も同じです。
名前を覚えている。
苦手なものを覚えている。
記念日だったことを覚えている。
でも、
これ見よがしにやらない方が粋だと思っています。
「前回これ飲まれてましたよね。」
より、
「前回気に入られていたものの親戚を、ちょっと仕入れてみたんです。」
僕なら、
こっちの方が嬉しい。
「覚えていますよ」というサービスではなく、
覚えていたから、何かしておいた。
しかも、
さらっと。
僕はそういうサービスが好きです。
そして、
料理人が最高の状態までつくった一皿も、
最後はサービスの人に渡されます。
運ぶのが遅ければ、
温度が落ちる。
置き方が雑なら、
料理まで雑に見える。
だからホールは、
料理をA地点からB地点へ運ぶ仕事ではない。
料理人から受け取った一皿を、
お客様のところで完成させる仕事でもある。僕は、
新人だから何も分からなくて当たり前、
とは思っていません。
料理名も、
席番号も、
電話の取り方も、
まだ知らないかもしれない。
でも、
何が善かれかを考えることは、初日からできる。
やってみる。
違った。
直す。
またやる。
知らないことと、
考えないことは、
まったく違います。
アルバイトだから。
ホールだから。
新人だから。
そうやって、
自分の仕事を小さくしないでほしい。
お客様が困っている。
気づいた。
まだ自分で判断できないなら、
店長に伝えればいい。
それも立派な仕事です。
僕自身、
今ではほとんど店にいません。シーラカンス並です。
だから、
今日の店をつくっているのは、
今日そこにいるみんなです。料理人も。
サービスも。
アルバイトも。
店長も。
そして僕が久しぶりに食べに行った時、
「あれ、こんなにいい店だったっけ。」
と思わせてほしい。
それなら最高です。
料理をつくらない人も、
店をつくっている。
今日一人のお客様に気づく。
今日一つ、店を良くする。
その積み重ねが、
いい店をつくるのだと思っています。
-
可能性のある土地は、三日で掘り尽くす。
思いつくのは一瞬。確信するまで、徹底的に掘る。
土地を見た瞬間に、
「ここ、こうしたらいい。」
と思うことがあります。
というか、
かなりの確率で思いつく。
そして散々調べ尽くした挙句、
八割方、
最初の思いつきに戻ってくる。
(笑)
でも、
その間が僕には必要です。思いつくのは一瞬。
確信するまで、徹底的に掘る。
可能性があると思った土地は、
とにかく見る。陸から見る。
海から見る。
崖の上なら下へ降りる。
山なら裾野まで行く。
そして案の定、
戻るのに一苦労する。川があれば向こう岸へ渡る。
湧水があれば採取する。
水質検査にも出す。土が気になれば、
スコップを買って本当に掘る。
どんな土なのか。
壁に使えないか、器にできないか。
そこまで考える。近隣も歩く。
朝。
昼。
夕方。
深夜。暗闇の猪の呼吸音はマジ怖っす。近所の人にも話を訊く。
僕は本来そんなに社交的ではないのに、
ここぞという時だけ人格が変わる。
(笑)
土地の歴史。
昔の使われ方。
水。
風。
今抱えている課題。
登記簿にも地図にも載っていない情報が、
人の記憶に残っていることがあります。
僕が知りたいのは、
面積や用途地域だけではありません。この場所はいったい何者なのか。
何が美しい。
何が弱い。
何がここにしかない。
そこまで知りたい。
そして僕の調査は、
超短い。
一般的に一か月かけて調べることを、
三日でやる。ダメかもしれないものに長く時間は使えない。
朝から深夜まで、
一気に掘る。
たまに僕が行方不明扱いされている時は、
だいたいこの三日間です。
(笑)面白いのは、
そこまで調べた最後に、
最初の、
「ここ、こうしたらいい。」
へ戻ることが多いこと。でも、
同じ答えでも意味が違う。最初は、
直感。
最後は、
確信。
そこから数字、法規、建築、運営にぶつけて、
事業へ変えていく。
僕が言う、
「強い事業をつくってから、美しい建築をつくる。」
とは、そういうことです。美しい建築をつくりたいからこそ、
その建築が生き続けられる、
強い事業をつくりたい。
現地へ行く。
歩く。
登る。
降りる。
渡る。
掘る。
採る。
訊く。
調べる。
そして最後に、
「やっぱり最初のでいい。」
となる。
だったら最初からそれでいいじゃないか、
とも思う。
(笑)
でも、
直感だけで人のお金は使えない。
思いつくのは一瞬。
確信するまで、
徹底的に掘る。
たぶん、
それが僕の事業開発のやり方です。 -
経営者は、意外とひとりだ。
周りに人はいる。でも、経営の本当のところを話せる相手は少ない。
経営者には、
相談相手がたくさんいるように見えます。
税理士。
銀行。
弁護士。
コンサルタント。
社員。
取引先。
家族。
でも、
経営について本当のところを話せる相手は、意外と少ない。
税金なら税理士。
契約なら弁護士。
融資なら銀行。
それぞれ専門家がいます。
でも、
経営の問題はそんなに綺麗に分かれていません。
売上が悪い。
人も辞めそう。
返済もある。
新しいこともやりたい。
幹部との関係もうまくいっていない。
さて、
これは誰に相談するんだろう。
経営者を長くやってきて、
もう一つ感じることがあります。
少し乱暴な言い方をすれば、
大方の専門家にとって、
最後は余所の会社のことです。
極端に言えば、
99%は他人事。
これは悪口ではありません。
仕方がないことです。
僕の会社がどうなろうと、
最後まで僕と同じ痛みを背負うことはできない。
だから僕は、
専門家から正しい答えだけを聞きたいわけではありません。
自分ごとの言葉を訊きたい。
「一般的にはこうです」
ではなく、
「僕だったら、こうする。」
「シンさん、それでも僕ならやります。」
あるいは、
「僕なら、もうやめます。」
そこまで聞きたい。
もちろん、
完全に自分ごとになれるとは思っていません。
借金を代わりに背負うわけでもない。
最後の責任を取るのは経営者です。
でも、
どこまで自分ごととして考えようとするか。
そこには大きな差があります。
面談の一時間だけ考える人と、
翌朝、
「あれ、こうしたらどうだろう」
と連絡してくる人は違う。
僕が欲しいのは、
後者です。
そして、
僕も後者でありたい。
だから僕は、
経営参謀を先生だとは思っていません。
経営者の代わりに決める人でもない。
経営者の隣に座る人。
「それ、本当ですか?」
「僕なら違うと思います。」
「それは、やった方がいい。」
そう言いながら、
一緒に考える。
最後に決めるのは、
経営者やオーナーです。
僕は、
「日本から経営孤児をなくす」
という言葉を使っています。
友達がいないという意味ではありません。
周りにはたくさん人がいる。
相談できる専門家もいる。
社員もいる。
それでも、
経営の本当のところを話せる相手がいない。
僕が言う経営孤児とは、
そういう状態です。
僕自身も、
まだ経営の途中にいます。
普通に間違える。
失敗もする。
だから、
先生になるつもりはありません。
ただ、
店をつくり、
人を雇い、
借金をし、
投資をし、
失敗して、
立て直して、
また新しいことを始めてきた。
その時間は持っています。
経営者は、
意外とひとりです。
でも、
ひとりで経営しなければならないわけではない。
どうせ話すなら、
一般論ではなく、
「僕だったら」
と、自分ごとの言葉を返してくれる人と話したい。
僕も、
そんな相手でありたいと思っています。 -
料理屋の値段を決めるのは、原価ではない。
率に囚われて、絶対額という経営の大局を見誤ってはならない。
原価が上がった。
だから値上げする。
原価率が30%だから、売価はいくら。
もちろん、
原価はものすごく大事です。
でも、
原価から逆算するだけでは、料理屋の値段は決められない。
例えば、
原価1,000円。
原価率30%なら、売価は約3,333円。
計算としては正しい。
でも、
その料理を3,333円で食べたいかどうかは、まったく別の話です。
僕は外食が好きです。
良い店には、できるだけ行きたい。
それでも何万円もする店へ、何も考えずに行けるわけではありません。
僕の場合、飲食なら一人2万円くらいが、
「よし、行ってみよう」
と思える一つの臨界点です。
それを超えると、
「本当に、その値打ちがあるのかな。」
1万円でも高かったと思う店はある。
2万円でも、
「これは良かった」
と思える店もある。
結局、
高い・安いは、金額そのものより、払った金額に対して何を感じたかで決まる。
僕はそう思っています。
だから値上げする時も、
値段だけを上げたくない。
何か一つでも、
前より良くできないかと考える。
原材料費も、人件費も、光熱費も上がる。
店を続けるために値上げしなければならない時もあります。
商売だから、それは仕方がない。
でも、
「原価が上がったので値上げしました。」
だけで終われば、
それは店側の都合です。
だから値上げする時こそ、
もう一度、商品を見る。
そして、もう一つ。
現場で数字を見ていると、
どうしても「率」に目が向きます。
原価率30%。
人件費率30%。
FL比率何%。
もちろん、管理するには大切な数字です。
でも経営では、
率より先に、絶対額を見るべき場面があります。
例えば、
3,000円の商品を売って1,000円残るのか。
5,000円の商品を売って1,500円残るのか。
後者の方が原価率が高かったとしても、
一つ売ることで残る利益の絶対額が大きいなら、
経営としてはそちらの方が正しいことだってある。
逆に、
原価率をきれいに守った結果、
商品に魅力がなくなり、
売上そのものが落ちてしまったら、
何のために率を守っているのか分からない。
現場では、
率は管理しやすい。
だからこそ、
率に固執しやすい。
でも、
経営の目的は、原価率を守ることではありません。
売上をつくり、
必要な利益を絶対額で残し、
店を良くし、
働く人に還元し、
そしてお客様にまた来てもらうことです。
僕が昔から大事にしている、
良心的な価格。
これは安売りという意味ではありません。
店にも無理がない。
お客様にも無理がない。
店には必要な利益が残り、
お客様には、
「この内容で、この値段ならいい」
と思ってもらえる。
その場所を探すことです。
だから僕は、
値段を上げる助言もするし、
そのまた逆も伝えます。
値上げしてお客様が大きく減ったなら、
こちらが考えた価値と、
お客様が感じた価値にズレがあったのかもしれない。
だったら、
もう一度考えればいい。
戻した方がいいなら、戻す。
商品を変えた方がいいなら、変える。
価格にプライドを持つより、
店を良くすることにプライドを持ちたい。「うまかった。また来よう。」
と思ってくれるか。
そして、その「また来よう」に、
無理のない値段になっているか。
料理屋の値段を決めるのは、
原価ではない。
原価も、利益も、お客様が感じる価値も、全部です。
僕にとって値決めとは、
その答えを探し続けることなんだと思います。
